移動走行距離2540マイル= 4087.7Km、 (稚内ー那覇は3500Km)

 

こんな事は自慢にもならないのであまり人に言うつもりは無かった。今頃やっと話す気になれたのだが、一昨年末の引っ越し程緊迫した思いは無い。新しい引っ越し先や学校を決める為の下見には飛行機を使ったのだが、実際の移動には2台の車と一緒に移動、家財道具だけ引っ越し業者に依頼するというダブルで行った。なぜそのような無謀なと思うかもしれないが、知り合いには結構経験者がいた。尤も知り合いの彼らも一台を交代で運転しながら、という常識の範囲内で収まる行いだった。私たちも最初はそのようにしようと考えていた。しかしながら業者との連絡のミスで車の引っ越しが含まれておらず、2台同時に、それぞれが一日中ハンドルを握りながら移動する事になった。まず、時間がかかっても明るい昼間だけ運転することにした。一日の移動距離を計算し、目的地を決める。朝出発する時にベストウェスタンなど家族で安心出来るモーテルがあるか下調べしておく。2時間運転をしたら休憩する。眠気防止にガムを噛む。ホテルでは休息を取る。このようにしていたが、何も起こらなかったというわけでは無い。無事に移動出来た今だからこそ言えるが、絶対に他人にはお勧め出来ない。子供も私の車の後部座席で朝9時から夕方暗くなるまで良く我慢してくれた。今、ブログに書いておこうと思い立ち改めて距離を計算して驚いたが、稚内から那覇まで以上の距離を運転したことになる。マイアミの南からフロリダ州を抜けてアラバマを横切り、ミシシッピー州ハティスバーグへ。ハティスバーグ(南ミシシッピー大学近辺)から更にテキサス州ダラスへ。ダラスから雪のニュースを聞きアルバカーキーとフラッグスタッフ経由の予定を変更して南のテキサス州ペコスへ。(唯一の楽しみだったホテルをキャンセルした)エルパソ(メキシコ国境の近く)を通過し、ニューメキシコ州を抜け、アリゾナ州ツーソンへ。ここで食料品の買い出しにベストウェスタンの人の勧めでアジアンマーケットへ。生ワカメや奈良漬が置いてあった。着々と西に近づいている事を実感し、アリゾナ州ツーソンからサボテンの山脈を抜けてネバダ州へ。暗くならないうちにたどり着いた。フロリダ、ミシシッピー、ダラス、ペコス、ツーサンと計5泊の長旅だった。

最初の休憩地点ウェストパームビーチ。憧れのウェストパームビーチのはずだがもう思い残す事はない。そしてこれがフロリダターンパイク、走行約2時間の各地点にあるレストエリアだ。

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午後の出発だったのでフロリダ州内で一泊。おなじみのラ・クインタだ。

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テキサス州のステートライン。大きな州だ。

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GPS(カーナビ)が壊れ、ペコスのウォールマートへ。二度と立ち寄ることはない、小さな店だ。テキサス州をドライブしていると、運転席の両脇から排気ガスを出すトラックに多数出くわした。昔観たトラックが執念深く追いつめるホラー映画を思い出した。(*激突!:スピルバーグ’73)怖かった。風車が多数回っていた。コットン畑もあった。奥が深い。

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これはアリゾナ州ステートライン。何もないところが物珍しかった。

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おまけの最後は新しい土地での災難。地下駐車場でカーナビ盗難に。(このリスクを冒す価値ある?)エポカのコートは無事だった。

治安悪いんか。

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さすがにこのホンダ、長旅には耐えられなかったようだ。ガタが来るのが予測より早く、しょっちゅうトリプルAのお世話になり昨年やむなく売却。マイアミの浸水地帯から来たので、砂漠地帯では水に浸かった車という烙印を押されたようだ。予定使用年を乗り切れなかった。残念だ。

若い頃東京からロスへ一人旅をした。レンタカーで気ままに旅をした。ビーチやダウンタウン、ハリウッドなどを運転した頃が懐かしい。

ここからロサンゼルスへ行くには寂しい山を超える。フロリダターンパイクのような休憩施設が整った道路を想像していた私が間違っていた。大変寂しい、何もない道だ。

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印象的だった石灯籠

この前久しぶりに帰省してあらためて思い至った事。

思い出の写真を携帯に収めて眺めていると小さい頃の思い出が断片的に思い出される。

祖父は今で言うアート好きだったようだ。普通の日本家屋だったが、廊下で目にした武者小路実篤の野菜の絵の色紙、ドガの踊り子、飾り物のひょうたん、居間に掛けていた落款のある大きな書、床の間の布袋さんの置物、掛け軸、庭のひょうたん池などに混じって印象的だったのが石灯籠だ。味わいのあるかわいい、そしてユーモラスな石灯籠だった。あのような石灯籠にお目にかかった事はあれ以来ない。物心ついたころから十何年間何気に目にしていたが今となって大変印象に残っている。

自身もバイオリンを弾く。私にも琴を習えと言っていたが結局ピアノを習った。祖父が若い頃に流行したドナウ河のさざなみをピアノで弾いたら庭を眺めながらじっと聴いていたが、よくつまるのがつまらん、とだ洒落のようなことを真面目に言っていた。祖父が来ると知っていればもっと練習をしておけば良かった。ピアノ曲集を適当にぱらぱらとめくってリクエストされたのだから。アイルランド民謡の庭の千草などをバイオリンで弾いていた。石川県でそのまま暮らしていればさぞや風流な暮らしをしていただろうと思われる。

分家のまたその核家族という文化も伝統も何も受け継いでいない家で育った私だからか、そういったものが貴重に感じられるのかも知れない。

写真:生まれたばかりの私とステテコ姿の爺さん@庭にて 1964.7

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 この昭和の子供(兄)の後ろにある池のさらに後方にあるのがその石灯籠。

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 ちゃんと写ったものは見当たらないがてっぺんに丸い石が乗ったものがそうだ。

 

 

一発あてた人

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カジノは教育に悪いですが大人にはお金のテーマパークのようですね。

ものは試しに、一人で何回かやってみましたが勿体なくなってやめました。もう一切行く気はありません。用があって通らざるを得ないところがネバダ州の難といえば難ですね。ゲームセンターにも行かないフロリダのママ友からすれば子育ての方針が違う、と結論づけられた事でしょう。

当たった話:人づてに聞いた話では夜中に当てたアメリカ人が札束を抱えてにこにこしながら去っていったそうです。時々何千万か当てたという人もいるらしいです。若い学生観光客が大当たりした時も千ドルつぎ込んだらしいのですが、そこまで掏っても良い覚悟で臨んだというのが驚きです。

お金の無い時にギャンブルすると欲をかいて丸裸になりますが、人間の心理をついたずるい胴元は無慈悲です。やくざ同然の商売ですね。当てたら速やかに去る。と思っています。沢山の従業員が家族を養う為に働いています。わたしももっと英語が出来れば雇ってもらえるかも知れませんね。

でも知り合いは他州でのロトで高額当選し、ヘッドオフィスのある市まで飛行機で受取に行ったそうです。それも2回。すごいですね。

柳の下にどじょうはいない

人の痛みがわかる人間になれ

(昔なぜかこのように面識の無い人物に上から目線で戒められました。どんな噂聞いたんでしょかね、まったくこちらのセリフなんですが、今でもあきれ返っています。聞いた人はまず同意するでしょうからね。腹黒い人達です)

 

 

NHK教育テレビピアノのおけいこ

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小学生の頃熱心に見ていた番組だ。

今日子供のためにランダムに開いた楽譜を弾いていたら思い出した。

簡単な愛らしい曲だ。ベートーベンのソナタOP.49 No.2 Second Movenmet

これはその番組のラストで曲の最後14小節が流れていた。

とても熱心に生徒と先生のやりとりを観ていた。

そのような生徒になれる事が憧れだったのだろう。

他にはクラシックギターの先生も良く見ていた。

小さい頃から真面目だったようだ。

申し訳なくて「のんびり」できない私 - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

最近ぼんやりした時間を思い出してみた。

土曜日の午後に昼寝をする時とか、飛行機を待っている時とか、子供を遊ばせている時とか、結構あった。

音楽を聴いて居る時もそうだ。

踊りを踊って働きもせず一人暮らしをしていた人もいた。(若い頃)いろんな人がいる。

 

日系人

帰国すると逆カルチャーショックかも - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

ここには日系人が沢山いるので英語がネイティブでも珍しくはないのだけど、やっぱり日本に住んで子育てをしていると知り合いの子供が流暢に英語を話すのは嫌なのかもしれないなと普段考えたことのないレベルで思いをめぐらせてみた。

もし私が日本に帰ったら、子供はいじめにあったり学業に苦しむだろう。こちらはDiversityを認める、それが躾けの違いや文化の違いを認める、となっているので、おそらくそれが無い事により美徳を築きあげてきた日本では相当厳しい目に遭うだろう。こちらでいろんな国の人達と暮らしていく方が性格にもあっている。時々アイデンティティの確率のために帰れば良いと思う。

私が将来日本に帰っても子供はここで働くだろう。興味を持って勉強して来日したければすればいい。

わたしも帰らない選択が出来るかもしれない。こちらで生計が成り立つだけの出来事があればの話だ。そして時々帰る。こんな暮らしは皆が夢見る。私もそうなりたい。夢があっていいな。実際にそうしている人も沢山いる。商売上手な人、裕福な人と結婚した普通の人、様々だ。

子供はこちらではただの日系人だ。日本語のような難しい言語を読み書きできる子供から見れば日本に帰るとからかわれてしまうだろう。

それよりノーベル賞を受賞した中村教授も日本語を捨てる覚悟で英語を学べば世界で通用する人間になれるという意味の事を言って影響されている人も多いらしい。

だから羨ましいのかもしれない。気を付けよう。足を引っ張る目的で帰国の勧誘などがあるかもしれない。またはこちらでの暮らしを厳しくして(わざと儲けさせない)帰らざるを得ない選択枝のみ与える。(これまで私がされてきたように)そういう裏があるのを知らない人は言われた通りにする。女の意地悪も殺人寸前の悪さだが、男の人は特に単純なので気を付けなければいけない。アメリカ人でも油断はできない。

人を見抜く目は少しは出来たように思う。

 

 

 

わかります

子供に悪いことが起こらないか不安で - 村上さんのところ/村上春樹 期間限定公式サイト

本を読んで映画を観ました。昔の雑誌インタビューで作者と対談していたのを読んで私も本を読んだように記憶しています。とても面白かったのでよく覚えています。

私の子供が3歳の頃、日本に帰って地元の公園に連れていった時、回りを見ずに走り出した時軽自動車が来たので思わず子供に走り寄ってダイビングしたのですが子供はそれで転んで顔を怪我し、それを見た私は青くなって冷や汗がぽたぽた落ちました。

冷や汗というのああいうものだと後で知りました。